魔王信長の天下布武 ~忍軍、陰陽師、法力僧が覇を争う戦国で、神殺しの織田信長は呪われた神器と天下を奪う~

魔王信長の天下布武 ~忍軍、陰陽師、法力僧が覇を争う戦国で、神殺しの織田信長は呪われた神器と天下を奪う~

last updateLast Updated : 2026-09-25
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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父・信秀の葬儀で、織田信長は棺から這い出した黒い呪いを焼き払い、家臣たちから不孝者のうつけと蔑まれる。この戦国では、忍びが妖魔と契約し、陰陽師が式神を操り、僧兵が人々の祈りを法力へ変え、名高い武具には歴代の怨念が宿っていた。神仏の力を持たない信長に与えられたのは、あらゆる契約を見抜き、断ち切る「破契の眼」。しかし力を断つたび、その呪いは信長自身を蝕んでいく。帰蝶、藤吉郎、光秀、家康らと天下を目指す信長は、戦乱を操る陰陽師集団「黒御門」の陰謀と、やがて自らが第六天魔王へ変わる運命に挑む。神に支配されぬ国を築くため、魔王信長の天下布武が始まる。

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Chapter 1

第1話 父の棺から這い出すもの

 もしも父の棺から、あの黒いものが這い出してこなかったなら、織田信長は衆人環視の中で抹香を投げつけるような真似をしなかっただろう。

 少なくとも、後に本人はそう語った。しかし、その言葉を信じた者は多くない。尾張中から「大うつけ」と呼ばれていた若者が、父の葬儀で見せた振る舞いを正当化するため、もっともらしい怪異を作り上げたのだと笑う者もいた。

 その日、萬松寺の本堂は、まだ春になり切らぬ冷気と、数え切れないほど焚かれた香の煙に包まれていた。

 天文二十一年三月、尾張国内で強い勢力を築き、「尾張の虎」とまで呼ばれた織田備後守信秀が死んだ。享年四十二。流行り病による病死だと伝えられていたが、その死があまりに急だったため、毒を盛られたという者もいれば、長年争ってきた敵方の陰陽師に呪い殺されたのだと囁く者もいた。

 本堂には織田一族だけでなく、家老、奉行、国人衆、商人、僧侶まで集まっていた。亡き信秀を悼むためという者もいれば、後継者を見定めるために来た者もいる。信秀という一頭の虎がいなくなった今、織田家が誰の手に渡るのか、それによって尾張の勢力図は大きく変わる。

 参列者たちの視線は、姿を見せない嫡男ではなく、棺の近くに端然と座る弟の織田勘十郎信勝へ集まっていた。

 信勝は兄より二つ年下ながら、礼法をよくわきまえ、穏やかな物腰を崩さない若者だった。深い悲しみを堪えるように伏せられた目も、背筋を伸ばして座る姿も、申し分のない当主の器に見える。少なくとも、腰に瓢箪や火打ち袋をぶら下げ、町の悪童どもと川で泳ぎ回る兄よりは、はるかに織田家の跡継ぎにふさわしい。

 信勝の後ろには、母の土田御前が座っていた。喪の色に身を包み、目元を赤く腫らしているものの、その姿勢には織田家当主の妻として長年生きてきた女の気丈さが残っている。

「兄上は、まだお越しにならぬのでしょうか」

 信勝が声を落として尋ねると、近くに控えていた林佐渡守秀貞は、苦々しい表情で本堂の入り口へ目を向けた。

「使いは何度も出しております。知らぬ場所におられるわけでもなく、那古野城にはお戻りになっているはずですが、御支度に手間取っているとのことでございます」

「父上の葬儀よりも大切な支度が、兄上にはあるのですか」

 信勝の言葉には露骨な悪意がなかった。それだけに、周囲の者たちは返答に困ったように視線を交わした。

 土田御前は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「あの子に、亡き父を敬う心を求めるほうが間違っているのでしょう。せめて今日だけでも、織田家の嫡男として恥ずかしくない姿を見せてほしいと願いましたが、あまりに望みが大きすぎたようです」

「母上、そのようにおっしゃらずとも、兄上にも何かお考えがあるのかもしれません」

「お前は昔から、あの子を庇おうとするのですね。けれど、優しさだけで家は守れません。信秀殿が亡くなった今、清洲の織田大和守家も、岩倉の伊勢守家も、こちらの弱みを探しているでしょう。あの子が今までと同じ振る舞いを続ければ、家中が割れるだけでは済まないのです」

 母の言葉を聞きながら、信勝は返事をしなかった。

 兄を庇ったつもりはなかった。ただ、母が兄を責めるたび、信勝の胸には説明しにくい居心地の悪さが残った。幼い頃から、兄は誰にも理解されず、自分は誰からも褒められた。母も傅役も家臣も、信勝の行儀のよさを称えたあと、決まって「あのうつけとは違う」と付け加えた。

 それを聞くたびに嬉しくなったのも事実だった。兄より自分のほうが優れていると認められることが、嫌ではなかった。

 しかし同時に、自分自身ではなく、兄の出来の悪さが愛されているような寂しさもあった。

 僧侶たちの読経が始まり、本堂に低い声が重なった。

 その音に合わせるように香の煙が揺れ、信秀の棺を薄く覆っていく。土田御前が唇を噛み、信勝が膝の上で拳を握り締めたとき、本堂の外が不意に騒がしくなった。

「お待ちください、若殿。そのようなお姿では困ります!」

「黙れ。葬式で死人が着物の文句を言うものか」

「亡き御屋形様ではなく、生きておられる方々が申すのです!」

「ならば、勝手に言わせておけ。口を動かすしか能のない者から口まで奪ったら、何も残らぬではないか」

 遠慮のない声とともに、織田信長が本堂へ入ってきた。

 参列者たちの間に、抑え切れないざわめきが広がった。

 信長は父の葬儀へ参列する武将とは思えない姿をしていた。髪は茶筅に結い、袴も着けず、腰には荒縄を巻いている。長い柄の太刀と脇差を差し、火打ち袋や瓢箪まで下げていた。いつも町を歩き回っているときと変わらぬ格好であり、喪に服すつもりがあるとは到底思えない。

 その後ろから、傅役の平手政秀が青ざめた顔で追いかけてきた。何とか上着だけでも整えようとしたのか、手には畳まれた羽織を抱えている。

「殿、お願いでございますから、せめてこれをお召しください。亡き御屋形様をお送りする大切な日でございます。御家中の者たちが、殿の一挙手一投足を見ておりますぞ」

「見たい者には見せておけ。俺は見世物になるために来たのではない」

「では、何のためにお越しになったのです」

「死人の顔を見るためだ」

 信長は平手政秀を振り返りもせず、居並ぶ家臣たちの間を歩いた。

 誰も信長に声をかけなかった。露骨に顔をしかめる者もいれば、視線を伏せる者もいる。その中で、柴田権六勝家だけは、大柄な身体をわずかに前へ傾け、信長を睨むように見据えていた。

 信長はその視線に気づいたが、何も言わなかった。

 ただ一人、本堂の端に座っていた帰蝶が、口元へかすかな笑みを浮かべた。

 美濃の斎藤道三から嫁いできた信長の正室である。喪にふさわしい地味な小袖をまとっているが、父譲りの鋭い目は、周囲のどの武将よりも生き生きと信長を観察していた。

「ようやくお越しになりましたか。御自分の父上より遅く来るとは、随分と大物でいらっしゃいますね」

 帰蝶の皮肉に、信長はようやく足を止めた。

「死人は待つのが上手い。生きている者の都合くらい、聞いてもらっても罰は当たるまい」

「罰をお与えになる仏様まで、あなたは信じておられないのでしょう」

「信じぬというより、気に入らぬ。生きている間は何もせぬくせに、死んだあとの行き先だけを決めたがる。随分と勝手な連中ではないか」

「その話を、よりにもよって寺の本堂でなさるあたりが、あなたらしいところです」

「声を潜めて陰口を叩くよりましであろう。ここには仏の陰に隠れれば何を言っても許されると思っている者が多いようだがな」

 信長が周囲を見渡すと、それまで彼を嘲っていた者たちが気まずそうに口を閉じた。

 帰蝶は呆れたように息をついたものの、その目から笑みは消えていなかった。

「まったく、敵を作ることにかけては、尾張一どころか天下一かもしれませんね」

「敵は作るものではない。勝手に名乗り出てくるものだ。見分ける手間が省けて、俺は助かっている」

「そう言い続けた末に、味方までいなくならなければよいのですが」

 信長は返事をせず、再び棺へ向かって歩き出した。

 土田御前は息子の姿を見ても立ち上がらなかった。その顔に浮かんだのは安堵ではなく、諦めと怒りだった。

「三郎、亡き父上の前です。そのような姿で近づくことは許しません。せめて羽織を着て、太刀を預けなさい」

「母上は、これが本当に父上だと思っておられるのか」

 信長が発した言葉に、本堂の空気が凍りついた。

 土田御前の顔から血の気が引き、信勝が勢いよく立ち上がった。

「兄上、それ以上はおやめください。遅れてきたうえ、そのような姿で父上の葬儀を汚し、今度は棺の中にいるのが父上ではないとおっしゃるのですか。いくら兄上でも、許されることと許されないことがあります」

「座れ、勘十郎。お前に話しているのではない」

「座れと言われて、座れるものですか。兄上はいつもそうだ。誰にも分かるように話そうとせず、相手が理解できなければ、その者を愚か者として切り捨てる。今日ばかりは、兄上のその態度を見過ごすことはできません」

 信勝の声が震えていた。怒りだけではなく、悲しみも混じっていることに気づいた信長は、わずかに目を細めた。

 信長は弟を嫌っているわけではなかった。しかし、どのような言葉を返せばよいのか分からなかった。

 父の死を悲しんでいるのは自分も同じだと口にしたところで、この場の誰が信じるのか。無理に取り繕えば、かえって弟を侮辱することになるような気もした。

「……分からぬなら黙って見ておれ。今は、それしか言えぬ」

「また、それですか」

 信勝は悔しそうに唇を噛んだ。

 信長は弟から視線を外すと、棺の前に置かれた香炉へ歩み寄った。

 読経を続けていた僧たちも、いつの間にか声を止めている。信長は香炉の前に片膝をつき、その中で細く煙を上げている抹香を見つめた。

 香の匂いに交じり、ひどく生臭い臭気が鼻を刺した。

 血と、湿った土と、腐った獣の腹を混ぜたような臭いだった。

 信長が顔を上げると、棺の蓋の隙間から、黒い煙が一筋だけ漏れ出していた。香の煙とは違う。それは空へ昇らず、床を舐めるように低く這いながら、参列者たちの間へ伸びている。

 誰も騒がない。

 平手政秀も、信勝も、母も、帰蝶さえ、その黒煙に気づいていない。

 見えているのは信長だけだった。

「父上」

 信長が低く呼びかけた。

 返事はない。しかし、棺の中で何かが動いた。

 ごり、と骨が擦れる音がした。

 信長の背筋に冷たいものが走る。死者が身じろぎするはずはない。棺の中で動いているのは、父ではなかった。

「三郎、何をしているのです。早くお座りなさい」

 母の声を無視し、信長は棺を凝視した。

 やがて、わずかに開いた蓋の隙間から、節くれ立った黒い脚が一本、また一本と現れた。

 百足に似ている。しかし、その胴体は赤子の腕ほども太く、表面には人間の目のようなものが無数に並んでいる。目はそれぞれ別の方向を見回し、やがて一斉に信勝を捉えた。

 黒い百足は、棺から流れ出る煙を伝い、弟へ向かって這い始めた。

「勘十郎、動くな」

 信長の声が変わったことに、信勝が眉をひそめた。

「何をおっしゃっているのです」

「口を閉じろ。息も吸うな」

「兄上は、いったい何を――」

 信勝が言葉を続けようと口を開いた瞬間、百足の身体が黒い煙へ変わった。

 煙は床を滑り、信勝の足元から一気に這い上がる。あれを吸い込めば、何が起こるのか信長にも分からない。しかし、父の死をもたらしたものが、次の器として弟を選んだことだけは理解できた。

 信長は香炉の抹香を鷲づかみにした。

「三郎、やめなさい!」

 母の制止を振り切り、信長は棺へ向かって抹香を投げつけた。

 乾いた粉が宙へ広がり、棺の蓋と床へ降り注ぐ。その瞬間、信長が腰に下げていた火打ち袋から赤い火花が飛び出した。

 火花は抹香へ燃え移り、青白い炎となって棺を包んだ。

 本堂に悲鳴が響いた。

「何をなさるのです、殿!」

「御屋形様の御棺が!」

「水だ、早く水を持て!」

 平手政秀が信長の腕をつかもうとしたが、信長は乱暴に振り払った。

「水をかけるな! あれを逃がすぞ!」

「何が逃げるとおっしゃるのです! 殿には、亡き御屋形様を悼む心がないのですか!」

「見えぬ者は黙っておれ!」

 信長は太刀を抜き、燃える棺へ斬りつけた。

 刃が棺の蓋を裂くより早く、黒い百足が炎の中から飛び出した。火に焼かれた無数の目が潰れ、焦げた臭いをまき散らしながら、信長の顔へ襲いかかる。

 信長の目には、百足の胴体から伸びる黒い糸が見えた。

 一本は棺の中にある父の遺体へ、もう一本は信勝の胸へ向かって伸びている。そして、さらに細い糸が、本堂の外、もっと遠いどこかへ続いていた。

 何者かが、あの化け物を操っている。

「死んだあとまで息子を使って、何を企んでいる。父上が知れば、貴様らを地獄まで追っていくぞ」

 信長は太刀を振り下ろした。

 刃が百足ではなく、その身体から伸びる黒い糸を断ち切った。

 耳元で、無数の人間が同時に泣き叫ぶような声が響く。

 百足の姿が大きく歪み、青い炎に包まれた。目玉が次々と破裂し、焼けた身体は黒い灰となって崩れていく。

 その灰は誰の目にも映らなかった。

 参列者たちに見えていたのは、父の棺へ抹香を投げつけ、突然太刀を抜いて棺を斬った信長の姿だけだった。

 静まり返った本堂で、信長は荒い息を整えた。

 床に落ちた灰の中に、小さな金属片が光っている。

 信長は誰にも気づかれないよう、血の滲んだ指でそれを拾い上げた。銅で作られた薄い札であり、表面には見慣れない鳥居と、目を閉じた烏を組み合わせたような印が刻まれていた。

 その印へ触れた瞬間、指先から焼けるような痛みが走った。

「三郎」

 母の声がした。

 信長が振り返ると、土田御前は立ち上がり、涙を流しながら彼を見つめていた。

 それは息子を見る母親の目ではなかった。理解できないもの、触れてはならないものを見る恐怖の目だった。

「なぜ、このようなことをしたのです。あなたは、父上をどこまで辱めれば気が済むのですか」

「母上、これは――」

 信長は説明しようとして、言葉を止めた。

 何を言っても信じてもらえないという諦めだけが理由ではなかった。

 黒い百足が信勝へ向かっていたと知れば、母は弟を守るために何をするか分からない。敵がどこにいるのか分からぬ以上、今は余計な情報を与えないほうがよい。

 そう判断した信長は、握り締めた銅札を袖の中へ隠した。

「棺の前に置かれた抹香が、気に入らなかっただけだ」

 あまりにも身勝手な答えだった。

 土田御前の顔から悲しみが消え、代わりに激しい怒りが浮かぶ。信勝も、平手政秀も、居並ぶ家臣たちも、信じられないものを見る目で信長を見つめていた。

 帰蝶だけが、じっと信長の右手を見ていた。

 百足の糸を断ったとき、信長の手のひらには、刃物で裂いたような傷が生まれていた。誰にも触れられていないにもかかわらず、その傷から流れた血が、太刀の柄を赤く濡らしている。

「出ていきなさい」

 土田御前が震える声で告げた。

「今すぐ、この場から出ていきなさい。これ以上、父上の御魂と織田家の名を汚すことは許しません」

「承知した」

 信長は太刀を鞘へ収めると、誰にも頭を下げず、本堂の出口へ向かった。

「殿、お待ちください。皆様に御説明をなさいませ。このままでは、御家中が殿を見限りますぞ」

 追いすがる平手政秀に、信長は足を止めないまま答えた。

「見限りたい者には、そうさせよ。あの程度の騒ぎで逃げる者なら、戦になったときも逃げる。早いうちに分かって都合がよい」

「そのような強がりを申し上げている場合ではございません。御屋形様を亡くされた今、殿には御家中をまとめる責任があるのです」

「家中をまとめる前に、父上を殺した者を見つける」

 平手政秀の足が止まった。

「……何を、おっしゃいました」

 信長も足を止めたが、振り返らなかった。

「父上は病で死んだのではない。何者かに呪いをかけられ、その呪いを棺の中に残された。俺が焼いたのは父上の御魂ではなく、父上の亡骸を食らっていたものだ」

「では、先ほど棺へ太刀を振るわれたのも、その何かを斬るためだったとおっしゃるのですか」

「信じる必要はない。ただし、父上の遺体を運んだ者、死に水を取った者、棺を用意した者を、俺に気づかれぬよう調べろ。一人でも逃げようとしたなら、生きたまま捕らえよ」

 平手政秀はしばらく答えなかった。

 長年仕えてきた信秀の棺を辱められた怒りもあれば、信長の言葉を信じたい思いもある。どちらか一方を選べるほど、政秀は若くも単純でもなかった。

「殿は、いつからそのようなものが見えておられたのです」

「物心がついた頃からだ。だが、今日見たものほど大きな呪いは初めてだった」

「なぜ、今まで私に何もおっしゃらなかったのです」

「言えば、信じたか」

「信じたかどうかを決めるのは、殿ではなく私でございましょう。殿はいつも、相手に拒まれる前から、その者が自分を理解しないと決めつけておられる。それでは誰も、殿のおそばへ近づくことができませぬ」

 政秀の声には怒りだけでなく、傷ついた者の寂しさが滲んでいた。

 信長は返す言葉を失い、黙って庭へ出た。

 冷たい風が吹き込み、火照った顔を撫でていく。萬松寺の庭では、何も知らない小鳥が枝から枝へ飛び移り、春を待つようにさえずっていた。

 信長は袖の中から銅札を取り出した。

 銅札に刻まれた烏の目は、先ほどまで閉じていたはずだった。

 しかし今は、その片目が開き、信長を見つめている。

「ようやく、見つけた」

 誰の声とも分からない囁きが、信長の頭の中へ直接流れ込んだ。

「織田信秀が命を賭して隠した、第六天の器を」

 銅札の烏が、嬉しそうに目を細めた。

 次の瞬間、札は信長の手の中で砕け、黒い灰となって風へ消えた。

 信長は空になった手を見下ろし、やがて本堂の屋根越しに広がる曇天へ目を向けた。

 父の死を悲しむ時間さえ、自分には与えられないらしい。

「人の親父を殺しておいて、次は俺を器にするだと。随分と勝手なことをほざく連中だ」

 信長の口元に、獣を思わせる笑みが浮かんだ。

「よかろう。どこの神か、どこの化け物かは知らぬが、この織田三郎信長を欲しがったことを、骨の髄まで後悔させてやる」

 父の葬儀で抹香を投げつけた大うつけの悪名は、この日のうちに尾張中へ広まった。

 それが、神仏に支配された戦国を焼き払い、後に第六天魔王と呼ばれる男の最初の戦いだったことを、この時点で知る者は誰もいなかった。

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第1話 父の棺から這い出すもの
 もしも父の棺から、あの黒いものが這い出してこなかったなら、織田信長は衆人環視の中で抹香を投げつけるような真似をしなかっただろう。 少なくとも、後に本人はそう語った。しかし、その言葉を信じた者は多くない。尾張中から「大うつけ」と呼ばれていた若者が、父の葬儀で見せた振る舞いを正当化するため、もっともらしい怪異を作り上げたのだと笑う者もいた。 その日、萬松寺の本堂は、まだ春になり切らぬ冷気と、数え切れないほど焚かれた香の煙に包まれていた。 天文二十一年三月、尾張国内で強い勢力を築き、「尾張の虎」とまで呼ばれた織田備後守信秀が死んだ。享年四十二。流行り病による病死だと伝えられていたが、その死があまりに急だったため、毒を盛られたという者もいれば、長年争ってきた敵方の陰陽師に呪い殺されたのだと囁く者もいた。 本堂には織田一族だけでなく、家老、奉行、国人衆、商人、僧侶まで集まっていた。亡き信秀を悼むためという者もいれば、後継者を見定めるために来た者もいる。信秀という一頭の虎がいなくなった今、織田家が誰の手に渡るのか、それによって尾張の勢力図は大きく変わる。 参列者たちの視線は、姿を見せない嫡男ではなく、棺の近くに端然と座る弟の織田勘十郎信勝へ集まっていた。 信勝は兄より二つ年下ながら、礼法をよくわきまえ、穏やかな物腰を崩さない若者だった。深い悲しみを堪えるように伏せられた目も、背筋を伸ばして座る姿も、申し分のない当主の器に見える。少なくとも、腰に瓢箪や火打ち袋をぶら下げ、町の悪童どもと川で泳ぎ回る兄よりは、はるかに織田家の跡継ぎにふさわしい。 信勝の後ろには、母の土田御前が座っていた。喪の色に身を包み、目元を赤く腫らしているものの、その姿勢には織田家当主の妻として長年生きてきた女の気丈さが残っている。「兄上は、まだお越しにならぬのでしょうか」 信勝が声を落として尋ねると、近くに控えていた林佐渡守秀貞は、苦々しい表情で本堂の入り口へ目を向けた。「使いは何度も出しております。知らぬ場所におられるわけでもなく、那古野城にはお戻りになっているはずですが、御支度に手間取っているとのことでございます」「父上の葬儀よりも大切な支度が、兄上にはあるのですか」 信勝の言葉には露骨な悪意がなかった。それだけに、周囲の者たちは返答に困ったように視線を交わした。 土田御前は
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第2話 うつけ者を廃嫡せよ
 織田信長が萬松寺を立ち去ったあとも、葬儀はすぐには再開されなかった。 焼け焦げた棺の蓋には太刀で斬りつけた跡が残り、本堂には抹香と焦げた木の臭いが入り混じっていた。僧たちは火が完全に消えたことを確かめながら、互いに顔を見合わせている。信長が斬ったものも、青白い炎に焼かれた黒い百足も見えていなかった彼らにとって、先ほどの出来事は、嫡男が父の葬儀へ遅れて現れ、棺に抹香を投げつけたうえ、いきなり太刀を抜いて暴れたようにしか見えなかった。 織田信勝は立ったまま、兄が出ていった本堂の入り口を睨んでいた。 怒りのために握り締めた拳が、かすかに震えている。爪が手のひらへ食い込み、痛みを感じているはずだが、信勝は力を緩めようとしなかった。「勘十郎様、まずはお座りください。葬儀の最中でございます」 林秀貞が声を落として促したが、信勝は返事をしなかった。 父を弔うための葬儀が、兄の振る舞いによって台無しにされた。そのことが許せないのは間違いない。しかし信勝の胸を占めていたのは、怒りばかりではなかった。 棺へ向かって太刀を振り下ろしたとき、信長の目には明らかな恐怖が浮かんでいた。 見栄も体面も気にせず、何事にも怯まないように見える兄が、初めて恐怖を露わにした。その視線は棺ではなく、自分へ向けられていた。 信勝には、兄が何を見たのか分からない。ただ、あの瞬間、信長が自分を守ろうとしていたように思えてならなかった。「勘十郎」 母の土田御前に呼ばれ、信勝はようやく我に返った。「はい、母上」「今は父上をお送りすることだけを考えなさい。三郎が何を考えてあのような真似をしたのか、私にも分かりません。しかし、あの子のために葬儀を中断したままにしておけば、それこそ父上の御魂が安らげないでしょう」「兄上のために中断しているのではありません。父上の棺があのような有様になった以上、何事もなかったように読経を続けることなどできないと申しているのです」 信勝は抑えようとしたものの、語気を強めてしまった。土田御前は驚いたように息子を見たが、すぐに悲しそうな表情へ戻った。「それでは、どうすればよいのです。三郎を呼び戻して謝らせますか。あの子が素直に頭を下げると、お前は本気で思っているのですか」「思いません。兄上は誰かに頭を下げるくらいなら、その者を斬るか、自分が斬られるかを選ぶ人
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第3話 死者が歩く清洲街道
 日が西へ傾き始めた清洲街道を、織田信長と帰蝶、それに知らせを持ってきた池田恒興の三騎が駆けていた。 父・信秀の遺体が消えたと聞いた信長は、那古野城へ戻って兵を集めようとはしなかった。大勢を動かせば、父の遺体を奪った者にこちらの動きを知らせることになるうえ、家中には信長を快く思わない者が多い。信秀を失った直後である今、誰が敵と通じているのかも分からなかった。「殿、せめて那古野から二十騎ほど呼び寄せるべきではございませぬか。御屋形様の御遺体を盗んだ者が、何人いるかも分からぬのでございますぞ」 先頭を走る信長へ、池田恒興が必死に声を張り上げた。 彼は信長の乳兄弟であり、幼い頃からその傍らに仕えている。信長の奇行には慣れているつもりだったが、今日の葬儀で起きたことだけは、恒興にも理解できなかった。 信長が亡き父の棺へ抹香を投げつけ、太刀で斬りつけた姿を見たとき、恒興も周囲の家臣と同じく、いくら何でも度が過ぎていると思った。しかし、棺から遺体が消え、寺の北門から清洲街道へ奇妙な跡が続いているとなれば、信長の振る舞いにも何か理由があったのではないかと考えざるを得ない。「二十騎も引き連れて街道を走れば、敵にここへ向かっておりますと教えるようなものだ。遺体を運んでいるなら、足は速くない。先に追いついて逃げ道を確かめ、そのあとで兵を呼べばよい」「相手が待ち伏せしていたら、三人ではどうにもなりませぬ」
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第4話 蝮の娘の短刀
 父・織田信秀の亡骸を取り戻した信長たちは、すぐに萬松寺へ引き返すことができなかった。 黒い糸を断ち切った代償によって信長は立っていることさえ難しく、池田恒興も死兵の刀を受けて左肩を負傷している。帰蝶だけは大きな傷を負っていなかったものの、成人した男の遺体を抱えて街道まで運び出せるはずがなかった。 日もすでに山の端へ沈みかけている。このまま林の中にいれば、間もなく辺りは闇に包まれるだろう。信秀の遺体を奪った術者が諦めていない可能性もあり、悠長に夜明けを待つわけにはいかなかった。「殿、この林を抜けた先に、小さな村がございます。そこまで行けば、荷車と人手を借りられるはずです。私が行ってまいりますので、殿と御台様はここで御屋形様をお守りください」 恒興は傷ついた左肩を右手で押さえながら、林の出口へ目を向けた。 着物の肩口は血に濡れ、顔色も決してよくない。その姿を見た信長は眉をひそめた。「その傷で馬に乗るつもりか。途中で落ちれば、迎えを呼びに行った者まで迎えに行かねばならなくなる」「馬へ乗る程度ならば問題ございません。殿こそ、御自分の顔色をご覧になったほうがよろしいかと存じます。先ほどから立派に話しておられますが、御台様が手を離されたら、そのまま地面へ倒れるのではございませぬか」「離されぬようにつかんでいるから問題ない」
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第5話 父を盗んだ陰陽師
 池田恒興が連れてきたのは、村の若者が三人と、年老いた名主、それに牛へ引かせる小さな荷車だった。 信長たちがいる林へ入った途端、村人たちは地面に転がる五人の死体を見て足を止めた。遺体は短い時間で腐敗が進み、顔の判別さえ難しくなっている。刀傷を受けて死んだ者なら見慣れているはずの村人たちも、尋常ではない死に方をしたことだけは察したらしく、誰も進んで近づこうとはしなかった。「この方々は、山賊に殺されたのでございましょうか」 名主が怯えた声で尋ねると、恒興は少し考えてから答えた。「今のところは、そういうことにしておいてくれ。詳しいことは、那古野へ戻ってから調べる」「そういうことに、とは……」「余計なことを知れば、お前たちまで狙われるかもしれぬという意味だ。ここで見たものについては、村へ戻っても誰にも話すな。亡くなった者たちの家族へ知らせるのも、織田家から行う」 恒興は乱暴に脅すのではなく、村人たちを案じるように説明した。 その言葉に名主は何度もうなずいたものの、納得したというより、これ以上関わりたくない一心のようだった。 信長は帰蝶の肩を借りながら立ち上がり、村人たちを見た。
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第6話 初めて斬った神
 尾張の夜空を覆った巨大な顔には、人間のような目も鼻もなかった。 あるのは、山から山まで届きそうなほど大きな口だけだった。上下に並んだ黒い牙の一本一本へ、戦や飢え、病によって命を落とした者たちの顔が浮かび、苦しげに口を動かしている。声は聞こえないはずなのに、助けを求める呻きが頭の中へ直接流れ込み、村人たちは耳を塞いで地面へ伏せた。 街道へ走った亀裂から赤黒い光が噴き上がり、その中から腕のような太い根が何本も伸びてくる。根は畑の土を引き裂き、村人たちを囲むように地面を這った。「逃げろ! 荷車を捨てて、街道の南へ走れ!」 池田恒興が叫んだが、村人たちは恐怖のあまり動けなかった。 若者の一人は腰が抜けたように座り込み、老いた名主は念仏を唱え続けている。荷車を引いていた牛だけが、つながれた綱を引きちぎろうと暴れ、その鳴き声が地鳴りに混じって響いた。「恒興、その者たちを連れて下がれ!」「殿を残して逃げられるはずがございません!」「怪我人が前に出て、何ができる。俺より先に血を流した者が、立派な忠臣のつもりで無駄死にするな!」「殿こそ、立っていることも難しい御身体でしょう!」
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第8話 弟の祝い膳
 末森城で開かれた宴は、表向きには亡き織田信秀を偲び、乱れかけた織田家の結束を確かめるためのものとされていた。 しかし、広間の上座には信秀の嫡男である織田信長ではなく、弟の勘十郎信勝が座っている。家臣たちが祝いの品として持ち寄った太刀や鎧、織物も、すべて信勝の前に並べられていた。 誰も家督相続の宴とは口にしなかったが、この場へ集まった者たちの大半は、信勝を織田弾正忠家の次の当主として扱っている。 信勝は淡い青色の小袖に、織田木瓜の紋を染め抜いた肩衣をまとい、居並ぶ家臣たちからの挨拶を受けていた。 礼を述べる声も、杯を受ける所作も非の打ち所がない。父の死を悼む態度を崩さず、それでいて今後の織田家を背負おうとする覚悟も見せている。 林秀貞は、その姿を満足そうに見守っていた。「勘十郎様、本日集まった者たちは、いずれも織田家の行く末を案じる忠臣にございます。御屋形様を失った悲しみは消えませぬが、いつまでも立ち止まっているわけにはまいりません。清洲の大和守家も、岩倉の伊勢守家も、我らの乱れを見逃しはしないでしょう」「分かっている。父上が守ったものを失わぬため、私もできる限りのことをするつもりだ。ただし、兄上を廃する話は、まだ決まったわけではない」 信勝が答えると、林秀貞の近くに座っていた林美作守通具が難しい顔をした。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第10話 平手政秀の諫死
 帰蝶へ毒を盛った女中の弟は、その翌朝、清洲城から少し離れた廃寺で発見された。 両手を縄で縛られ、仏堂の床下へ押し込まれていたものの、命に別状はなかった。見張りの姿はなく、残されていたのは、白い百足を描いた紙人形と、乾いた血が入った小さな壺だけだった。 平手政秀は自ら廃寺へ赴き、床や柱、土壁へ残された痕跡を調べた。 信長からは、毒へ混ぜられていた灰がどこの寺で作られたものなのか、白い百足の僧が何者なのかを突き止めるよう命じられている。信長の傅役として長年仕えてきた政秀は、武家や寺社、商人の間にも独自のつながりを持っていた。 人ならざるものを見る力はなくても、人間が残した跡を調べることならできる。 仏堂には、長い間人が住んでいた形跡がなかった。 囲炉裏に残った灰は冷たく、天井には蜘蛛の巣が張っている。しかし、本尊の前にだけ新しい蝋燭が一本置かれ、その根元へ白い粉がまかれていた。 政秀は白い粉を懐紙ですくい、鼻先へ近づけた。「これは、骨の灰か」 人や獣の骨を焼いたものに見えるが、妙に甘い臭いがした。 政秀が懐紙を折り畳もうとしたとき、粉の中から髪の毛ほど細い白
last updateLast Updated : 2026-09-17
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