LOGIN父・信秀の葬儀で、織田信長は棺から這い出した黒い呪いを焼き払い、家臣たちから不孝者のうつけと蔑まれる。この戦国では、忍びが妖魔と契約し、陰陽師が式神を操り、僧兵が人々の祈りを法力へ変え、名高い武具には歴代の怨念が宿っていた。神仏の力を持たない信長に与えられたのは、あらゆる契約を見抜き、断ち切る「破契の眼」。しかし力を断つたび、その呪いは信長自身を蝕んでいく。帰蝶、藤吉郎、光秀、家康らと天下を目指す信長は、戦乱を操る陰陽師集団「黒御門」の陰謀と、やがて自らが第六天魔王へ変わる運命に挑む。神に支配されぬ国を築くため、魔王信長の天下布武が始まる。
View Moreもしも父の棺から、あの黒いものが這い出してこなかったなら、織田信長は衆人環視の中で抹香を投げつけるような真似をしなかっただろう。
少なくとも、後に本人はそう語った。しかし、その言葉を信じた者は多くない。尾張中から「大うつけ」と呼ばれていた若者が、父の葬儀で見せた振る舞いを正当化するため、もっともらしい怪異を作り上げたのだと笑う者もいた。
その日、萬松寺の本堂は、まだ春になり切らぬ冷気と、数え切れないほど焚かれた香の煙に包まれていた。
天文二十一年三月、尾張国内で強い勢力を築き、「尾張の虎」とまで呼ばれた織田備後守信秀が死んだ。享年四十二。流行り病による病死だと伝えられていたが、その死があまりに急だったため、毒を盛られたという者もいれば、長年争ってきた敵方の陰陽師に呪い殺されたのだと囁く者もいた。
本堂には織田一族だけでなく、家老、奉行、国人衆、商人、僧侶まで集まっていた。亡き信秀を悼むためという者もいれば、後継者を見定めるために来た者もいる。信秀という一頭の虎がいなくなった今、織田家が誰の手に渡るのか、それによって尾張の勢力図は大きく変わる。
参列者たちの視線は、姿を見せない嫡男ではなく、棺の近くに端然と座る弟の織田勘十郎信勝へ集まっていた。
信勝は兄より二つ年下ながら、礼法をよくわきまえ、穏やかな物腰を崩さない若者だった。深い悲しみを堪えるように伏せられた目も、背筋を伸ばして座る姿も、申し分のない当主の器に見える。少なくとも、腰に瓢箪や火打ち袋をぶら下げ、町の悪童どもと川で泳ぎ回る兄よりは、はるかに織田家の跡継ぎにふさわしい。
信勝の後ろには、母の土田御前が座っていた。喪の色に身を包み、目元を赤く腫らしているものの、その姿勢には織田家当主の妻として長年生きてきた女の気丈さが残っている。
「兄上は、まだお越しにならぬのでしょうか」
信勝が声を落として尋ねると、近くに控えていた林佐渡守秀貞は、苦々しい表情で本堂の入り口へ目を向けた。
「使いは何度も出しております。知らぬ場所におられるわけでもなく、那古野城にはお戻りになっているはずですが、御支度に手間取っているとのことでございます」
「父上の葬儀よりも大切な支度が、兄上にはあるのですか」
信勝の言葉には露骨な悪意がなかった。それだけに、周囲の者たちは返答に困ったように視線を交わした。
土田御前は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「あの子に、亡き父を敬う心を求めるほうが間違っているのでしょう。せめて今日だけでも、織田家の嫡男として恥ずかしくない姿を見せてほしいと願いましたが、あまりに望みが大きすぎたようです」
「母上、そのようにおっしゃらずとも、兄上にも何かお考えがあるのかもしれません」
「お前は昔から、あの子を庇おうとするのですね。けれど、優しさだけで家は守れません。信秀殿が亡くなった今、清洲の織田大和守家も、岩倉の伊勢守家も、こちらの弱みを探しているでしょう。あの子が今までと同じ振る舞いを続ければ、家中が割れるだけでは済まないのです」
母の言葉を聞きながら、信勝は返事をしなかった。
兄を庇ったつもりはなかった。ただ、母が兄を責めるたび、信勝の胸には説明しにくい居心地の悪さが残った。幼い頃から、兄は誰にも理解されず、自分は誰からも褒められた。母も傅役も家臣も、信勝の行儀のよさを称えたあと、決まって「あのうつけとは違う」と付け加えた。
それを聞くたびに嬉しくなったのも事実だった。兄より自分のほうが優れていると認められることが、嫌ではなかった。
しかし同時に、自分自身ではなく、兄の出来の悪さが愛されているような寂しさもあった。
僧侶たちの読経が始まり、本堂に低い声が重なった。
その音に合わせるように香の煙が揺れ、信秀の棺を薄く覆っていく。土田御前が唇を噛み、信勝が膝の上で拳を握り締めたとき、本堂の外が不意に騒がしくなった。
「お待ちください、若殿。そのようなお姿では困ります!」
「黙れ。葬式で死人が着物の文句を言うものか」
「亡き御屋形様ではなく、生きておられる方々が申すのです!」
「ならば、勝手に言わせておけ。口を動かすしか能のない者から口まで奪ったら、何も残らぬではないか」
遠慮のない声とともに、織田信長が本堂へ入ってきた。
参列者たちの間に、抑え切れないざわめきが広がった。
信長は父の葬儀へ参列する武将とは思えない姿をしていた。髪は茶筅に結い、袴も着けず、腰には荒縄を巻いている。長い柄の太刀と脇差を差し、火打ち袋や瓢箪まで下げていた。いつも町を歩き回っているときと変わらぬ格好であり、喪に服すつもりがあるとは到底思えない。
その後ろから、傅役の平手政秀が青ざめた顔で追いかけてきた。何とか上着だけでも整えようとしたのか、手には畳まれた羽織を抱えている。
「殿、お願いでございますから、せめてこれをお召しください。亡き御屋形様をお送りする大切な日でございます。御家中の者たちが、殿の一挙手一投足を見ておりますぞ」
「見たい者には見せておけ。俺は見世物になるために来たのではない」
「では、何のためにお越しになったのです」
「死人の顔を見るためだ」
信長は平手政秀を振り返りもせず、居並ぶ家臣たちの間を歩いた。
誰も信長に声をかけなかった。露骨に顔をしかめる者もいれば、視線を伏せる者もいる。その中で、柴田権六勝家だけは、大柄な身体をわずかに前へ傾け、信長を睨むように見据えていた。
信長はその視線に気づいたが、何も言わなかった。
ただ一人、本堂の端に座っていた帰蝶が、口元へかすかな笑みを浮かべた。
美濃の斎藤道三から嫁いできた信長の正室である。喪にふさわしい地味な小袖をまとっているが、父譲りの鋭い目は、周囲のどの武将よりも生き生きと信長を観察していた。
「ようやくお越しになりましたか。御自分の父上より遅く来るとは、随分と大物でいらっしゃいますね」
帰蝶の皮肉に、信長はようやく足を止めた。
「死人は待つのが上手い。生きている者の都合くらい、聞いてもらっても罰は当たるまい」
「罰をお与えになる仏様まで、あなたは信じておられないのでしょう」
「信じぬというより、気に入らぬ。生きている間は何もせぬくせに、死んだあとの行き先だけを決めたがる。随分と勝手な連中ではないか」
「その話を、よりにもよって寺の本堂でなさるあたりが、あなたらしいところです」
「声を潜めて陰口を叩くよりましであろう。ここには仏の陰に隠れれば何を言っても許されると思っている者が多いようだがな」
信長が周囲を見渡すと、それまで彼を嘲っていた者たちが気まずそうに口を閉じた。
帰蝶は呆れたように息をついたものの、その目から笑みは消えていなかった。
「まったく、敵を作ることにかけては、尾張一どころか天下一かもしれませんね」
「敵は作るものではない。勝手に名乗り出てくるものだ。見分ける手間が省けて、俺は助かっている」
「そう言い続けた末に、味方までいなくならなければよいのですが」
信長は返事をせず、再び棺へ向かって歩き出した。
土田御前は息子の姿を見ても立ち上がらなかった。その顔に浮かんだのは安堵ではなく、諦めと怒りだった。
「三郎、亡き父上の前です。そのような姿で近づくことは許しません。せめて羽織を着て、太刀を預けなさい」
「母上は、これが本当に父上だと思っておられるのか」
信長が発した言葉に、本堂の空気が凍りついた。
土田御前の顔から血の気が引き、信勝が勢いよく立ち上がった。
「兄上、それ以上はおやめください。遅れてきたうえ、そのような姿で父上の葬儀を汚し、今度は棺の中にいるのが父上ではないとおっしゃるのですか。いくら兄上でも、許されることと許されないことがあります」
「座れ、勘十郎。お前に話しているのではない」
「座れと言われて、座れるものですか。兄上はいつもそうだ。誰にも分かるように話そうとせず、相手が理解できなければ、その者を愚か者として切り捨てる。今日ばかりは、兄上のその態度を見過ごすことはできません」
信勝の声が震えていた。怒りだけではなく、悲しみも混じっていることに気づいた信長は、わずかに目を細めた。
信長は弟を嫌っているわけではなかった。しかし、どのような言葉を返せばよいのか分からなかった。
父の死を悲しんでいるのは自分も同じだと口にしたところで、この場の誰が信じるのか。無理に取り繕えば、かえって弟を侮辱することになるような気もした。
「……分からぬなら黙って見ておれ。今は、それしか言えぬ」
「また、それですか」
信勝は悔しそうに唇を噛んだ。
信長は弟から視線を外すと、棺の前に置かれた香炉へ歩み寄った。
読経を続けていた僧たちも、いつの間にか声を止めている。信長は香炉の前に片膝をつき、その中で細く煙を上げている抹香を見つめた。
香の匂いに交じり、ひどく生臭い臭気が鼻を刺した。
血と、湿った土と、腐った獣の腹を混ぜたような臭いだった。
信長が顔を上げると、棺の蓋の隙間から、黒い煙が一筋だけ漏れ出していた。香の煙とは違う。それは空へ昇らず、床を舐めるように低く這いながら、参列者たちの間へ伸びている。
誰も騒がない。
平手政秀も、信勝も、母も、帰蝶さえ、その黒煙に気づいていない。
見えているのは信長だけだった。
「父上」
信長が低く呼びかけた。
返事はない。しかし、棺の中で何かが動いた。
ごり、と骨が擦れる音がした。
信長の背筋に冷たいものが走る。死者が身じろぎするはずはない。棺の中で動いているのは、父ではなかった。
「三郎、何をしているのです。早くお座りなさい」
母の声を無視し、信長は棺を凝視した。
やがて、わずかに開いた蓋の隙間から、節くれ立った黒い脚が一本、また一本と現れた。
百足に似ている。しかし、その胴体は赤子の腕ほども太く、表面には人間の目のようなものが無数に並んでいる。目はそれぞれ別の方向を見回し、やがて一斉に信勝を捉えた。
黒い百足は、棺から流れ出る煙を伝い、弟へ向かって這い始めた。
「勘十郎、動くな」
信長の声が変わったことに、信勝が眉をひそめた。
「何をおっしゃっているのです」
「口を閉じろ。息も吸うな」
「兄上は、いったい何を――」
信勝が言葉を続けようと口を開いた瞬間、百足の身体が黒い煙へ変わった。
煙は床を滑り、信勝の足元から一気に這い上がる。あれを吸い込めば、何が起こるのか信長にも分からない。しかし、父の死をもたらしたものが、次の器として弟を選んだことだけは理解できた。
信長は香炉の抹香を鷲づかみにした。
「三郎、やめなさい!」
母の制止を振り切り、信長は棺へ向かって抹香を投げつけた。
乾いた粉が宙へ広がり、棺の蓋と床へ降り注ぐ。その瞬間、信長が腰に下げていた火打ち袋から赤い火花が飛び出した。
火花は抹香へ燃え移り、青白い炎となって棺を包んだ。
本堂に悲鳴が響いた。
「何をなさるのです、殿!」
「御屋形様の御棺が!」
「水だ、早く水を持て!」
平手政秀が信長の腕をつかもうとしたが、信長は乱暴に振り払った。
「水をかけるな! あれを逃がすぞ!」
「何が逃げるとおっしゃるのです! 殿には、亡き御屋形様を悼む心がないのですか!」
「見えぬ者は黙っておれ!」
信長は太刀を抜き、燃える棺へ斬りつけた。
刃が棺の蓋を裂くより早く、黒い百足が炎の中から飛び出した。火に焼かれた無数の目が潰れ、焦げた臭いをまき散らしながら、信長の顔へ襲いかかる。
信長の目には、百足の胴体から伸びる黒い糸が見えた。
一本は棺の中にある父の遺体へ、もう一本は信勝の胸へ向かって伸びている。そして、さらに細い糸が、本堂の外、もっと遠いどこかへ続いていた。
何者かが、あの化け物を操っている。
「死んだあとまで息子を使って、何を企んでいる。父上が知れば、貴様らを地獄まで追っていくぞ」
信長は太刀を振り下ろした。
刃が百足ではなく、その身体から伸びる黒い糸を断ち切った。
耳元で、無数の人間が同時に泣き叫ぶような声が響く。
百足の姿が大きく歪み、青い炎に包まれた。目玉が次々と破裂し、焼けた身体は黒い灰となって崩れていく。
その灰は誰の目にも映らなかった。
参列者たちに見えていたのは、父の棺へ抹香を投げつけ、突然太刀を抜いて棺を斬った信長の姿だけだった。
静まり返った本堂で、信長は荒い息を整えた。
床に落ちた灰の中に、小さな金属片が光っている。
信長は誰にも気づかれないよう、血の滲んだ指でそれを拾い上げた。銅で作られた薄い札であり、表面には見慣れない鳥居と、目を閉じた烏を組み合わせたような印が刻まれていた。
その印へ触れた瞬間、指先から焼けるような痛みが走った。
「三郎」
母の声がした。
信長が振り返ると、土田御前は立ち上がり、涙を流しながら彼を見つめていた。
それは息子を見る母親の目ではなかった。理解できないもの、触れてはならないものを見る恐怖の目だった。
「なぜ、このようなことをしたのです。あなたは、父上をどこまで辱めれば気が済むのですか」
「母上、これは――」
信長は説明しようとして、言葉を止めた。
何を言っても信じてもらえないという諦めだけが理由ではなかった。
黒い百足が信勝へ向かっていたと知れば、母は弟を守るために何をするか分からない。敵がどこにいるのか分からぬ以上、今は余計な情報を与えないほうがよい。
そう判断した信長は、握り締めた銅札を袖の中へ隠した。
「棺の前に置かれた抹香が、気に入らなかっただけだ」
あまりにも身勝手な答えだった。
土田御前の顔から悲しみが消え、代わりに激しい怒りが浮かぶ。信勝も、平手政秀も、居並ぶ家臣たちも、信じられないものを見る目で信長を見つめていた。
帰蝶だけが、じっと信長の右手を見ていた。
百足の糸を断ったとき、信長の手のひらには、刃物で裂いたような傷が生まれていた。誰にも触れられていないにもかかわらず、その傷から流れた血が、太刀の柄を赤く濡らしている。
「出ていきなさい」
土田御前が震える声で告げた。
「今すぐ、この場から出ていきなさい。これ以上、父上の御魂と織田家の名を汚すことは許しません」
「承知した」
信長は太刀を鞘へ収めると、誰にも頭を下げず、本堂の出口へ向かった。
「殿、お待ちください。皆様に御説明をなさいませ。このままでは、御家中が殿を見限りますぞ」
追いすがる平手政秀に、信長は足を止めないまま答えた。
「見限りたい者には、そうさせよ。あの程度の騒ぎで逃げる者なら、戦になったときも逃げる。早いうちに分かって都合がよい」
「そのような強がりを申し上げている場合ではございません。御屋形様を亡くされた今、殿には御家中をまとめる責任があるのです」
「家中をまとめる前に、父上を殺した者を見つける」
平手政秀の足が止まった。
「……何を、おっしゃいました」
信長も足を止めたが、振り返らなかった。
「父上は病で死んだのではない。何者かに呪いをかけられ、その呪いを棺の中に残された。俺が焼いたのは父上の御魂ではなく、父上の亡骸を食らっていたものだ」
「では、先ほど棺へ太刀を振るわれたのも、その何かを斬るためだったとおっしゃるのですか」
「信じる必要はない。ただし、父上の遺体を運んだ者、死に水を取った者、棺を用意した者を、俺に気づかれぬよう調べろ。一人でも逃げようとしたなら、生きたまま捕らえよ」
平手政秀はしばらく答えなかった。
長年仕えてきた信秀の棺を辱められた怒りもあれば、信長の言葉を信じたい思いもある。どちらか一方を選べるほど、政秀は若くも単純でもなかった。
「殿は、いつからそのようなものが見えておられたのです」
「物心がついた頃からだ。だが、今日見たものほど大きな呪いは初めてだった」
「なぜ、今まで私に何もおっしゃらなかったのです」
「言えば、信じたか」
「信じたかどうかを決めるのは、殿ではなく私でございましょう。殿はいつも、相手に拒まれる前から、その者が自分を理解しないと決めつけておられる。それでは誰も、殿のおそばへ近づくことができませぬ」
政秀の声には怒りだけでなく、傷ついた者の寂しさが滲んでいた。
信長は返す言葉を失い、黙って庭へ出た。
冷たい風が吹き込み、火照った顔を撫でていく。萬松寺の庭では、何も知らない小鳥が枝から枝へ飛び移り、春を待つようにさえずっていた。
信長は袖の中から銅札を取り出した。
銅札に刻まれた烏の目は、先ほどまで閉じていたはずだった。
しかし今は、その片目が開き、信長を見つめている。
「ようやく、見つけた」
誰の声とも分からない囁きが、信長の頭の中へ直接流れ込んだ。
「織田信秀が命を賭して隠した、第六天の器を」
銅札の烏が、嬉しそうに目を細めた。
次の瞬間、札は信長の手の中で砕け、黒い灰となって風へ消えた。
信長は空になった手を見下ろし、やがて本堂の屋根越しに広がる曇天へ目を向けた。
父の死を悲しむ時間さえ、自分には与えられないらしい。
「人の親父を殺しておいて、次は俺を器にするだと。随分と勝手なことをほざく連中だ」
信長の口元に、獣を思わせる笑みが浮かんだ。
「よかろう。どこの神か、どこの化け物かは知らぬが、この織田三郎信長を欲しがったことを、骨の髄まで後悔させてやる」
父の葬儀で抹香を投げつけた大うつけの悪名は、この日のうちに尾張中へ広まった。
それが、神仏に支配された戦国を焼き払い、後に第六天魔王と呼ばれる男の最初の戦いだったことを、この時点で知る者は誰もいなかった。
第十八話 七日で清洲を奪え 清洲城を七日後に取り返すと宣言した翌朝、那古野城の広間では、織田家の重臣たちが二つに割れていた。「無謀でございます!」 真っ先に反対したのは、家老の林秀貞だった。「清洲方は、急ぎ集めても三千を超える兵を動かせます。それに対し、三郎様がすぐ使える兵は、多く見積もっても八百。城攻めには、守る側の三倍の兵が必要と申しますのに、こちらは三分の一にも届きませぬ。坂井大膳の不正を記した帳面があるとはいえ、それだけで城壁が崩れるわけではございません」 林秀貞は信長を主君として支える立場にありながら、その振る舞いを長く危ぶんできた。信長より礼儀正しく、母や家臣たちの言葉を聞く信行のほうが、織田家を任せるにふさわしいと考えている一人でもある。 彼は直接、信長を廃嫡せよとは言わなかった。しかし、清洲城から届いた出頭命令に従い、まずは織田信友へ弁明するべきだと主張した。「三郎様が武具を持たず清洲へ出向き、祭壇を壊したのは、黒御門なる怪しげな者たちの術を止めるためだったと御説明になればよいのです。米蔵へ火を放ったのも坂井大膳の兵であり、三郎様には責任がないと、帳面を示してお話しすれば――」「話を聞いてもらえると、本気で思っているのか」 上座に座る信長は、林秀貞の言葉を遮った。「俺が清洲へ入れば、その場で捕らえられる。帳面は燃やされ、俺は黒御門の祭壇を壊した罪で腹を切らされる。そのあと信行が新しい当主として迎えられ、大膳が後ろから操る。信友や大膳が欲しいのは説明ではない。俺の首と、従順な織田家の当主だ」「それは三郎様の御推測にすぎません」「ならば本人に聞け」 信長が広間の反対側へ目を向けると、重臣たちの間に座っていた信行が顔を上げた。 頬には、百面の呪いによって残された赤黒い痕がある。母の土田御前は、まだ床を離れられず、この評定には出ていない。「清洲からは、私を新たな織田家当主として迎えるという
第十七話 清洲城からの取り立て「すべて払ってから死ね。利息は、尾張一国分だ」 信長が太刀の切っ先を向けても、坂井大膳は怯まなかった。 大膳の背後には、清洲衆の兵が三十人以上並んでいる。狭い地下祭壇へ入れる人数だけでもそれほどおり、石扉の外には、さらに多くの足音が聞こえていた。 信長の側に残っているのは、槍を失った犬千代と、顔を取り戻したばかりの小夜だけである。帰蝶と恒興は先に影道へ入り、北の堀へ向かったはずだった。 開いた影道は、すでに半分ほど閉じていた。小夜の力だけでは、あと五十を数える間も保たない。「尾張一国分とは、うつけにしては大きく出たものだ」 大膳は厚い唇を歪め、信長を嘲笑った。「この城に忍び込み、代々守られてきた祭壇を壊し、御神体である面を盗み出したのは貴様だ。払うべきものがあるとすれば、貴様の首であろう。大人しく縄につけば、せめて人前で切腹する名誉くらいは与えてやる」「俺が壊したのは、貴様らが民から奪った顔と名を使い、都へ尾張の力を売り渡すために作った門だ。あれを御神体と呼ぶなら、清洲では盗人を神として祀るらしいな」「何を申しているのかわからぬ。呪いにでも気を触らせたか」 大膳は兵たちへ聞かせるように声を張った。「皆の者、よく見ておけ。織田三郎は、父の葬儀で抹香を投げたばかりか、清洲城へ賊のように忍び込み、意味のわからぬことを喚いている。このような男へ尾張を任せれば、織田家は三年も持たぬ!」 兵たちが槍を構え直す。 大膳は黒御門と通じている。しかし、ここにいる兵の全員が事情を知っているわけではない。彼らの多くは命じられたまま、城へ侵入した信長を捕らえようとしているだけだ。 信長が太刀を握り直すと、小夜が隣へ並んだ。「三郎様、影道へお入りください。私がここへ残り、道を閉ざします」「お前一人で何人を止められる」「止め
第十六話 母も弟も選ばない「選べ、織田信長。母の顔か、弟の顔か」 鬼門櫓の祭壇に開きかけた黒い門から、加茂玄蕃の声が響いていた。 百枚目となる白面には、信行と土田御前、二人分の顔が重なっている。信長が一方へ伸びる契約を斬れば、もう一方が百枚目として完成し、黒御門の門を開く礎となる仕組みだった。「弟を守れば、お前を産んだ母が顔と名を失う。母を守れば、弟は二度と誰からも思い出されぬ。いずれ家督を争う弟を、この機会に始末するか。それとも自分を恐れ、愛することさえできなかった母を見捨てるか。どちらを選んでも、お前は苦しむ」 玄蕃の声には、勝利を確信した者の余裕があった。 帰蝶は白面から伸びる二本の黒い糸を見つめた。彼女には信長ほど鮮明に契約を見ることはできないが、父から渡された短刀が小さく震え、祭壇に仕込まれた呪いの強さを知らせている。「三郎殿、二本とも斬ることはできないのですか」「同時に斬れば、母上と信行の魂が衝突し、二人とも面へ吸い込まれる。片方ずつ斬っても、残った一方が門を完成させる」「ならば、門そのものを壊しましょう」 犬千代が赤黒い槍を持ち上げた。「俺の炎を祭壇へ入れれば、面も門もまとめて焼けます。少々大きな火になるでしょうが、清洲城の地下だけで済むよう、できる限り加減いたします」「犬千代殿の『できる限り』ほど、不安になる言葉もありませんね」 帰蝶が言うと、犬千代は真面目な顔で反論した。「先ほどは番人の内側だけを焼き、面を一枚も焦がしませんでした。俺は一度できたことなら、次はさらに上手くできます」「祭壇を焼けば、母上と信行も一緒に焼かれる。二人の魂は、すでにこの白面へ触れている」「それでは、どうすればよいのでございます」「俺に考えさせろ」 信長は白面の前へ進み、二本の黒い糸が重なる場所を探した。 玄蕃
第十五話 百枚目は弟の顔 黒い扉へ埋め込まれた九十九枚の面は、坂井大膳と同じ声で笑っていた。「遅かったな、織田三郎信長。百枚目の顔は、すでにこちらへ向かっている」 老人の面も、幼い子供の面も、口の動きは同じだった。笑うたびに乾いた音が重なり、鬼門櫓の地下へ不快な響きが広がる。 信長は扉に書かれた血文字を見つめた。 ――百枚目、織田勘十郎信行。 もし信行の顔と名が奪われれば、弟は死ぬだけでは済まない。織田家の血を引く者として百面の儀式へ組み込まれ、尾張の霊脈を都へ流すための器にされる。魂を使い潰されるまで、黒御門の門を開き続けることになるだろう。「坂井大膳、ずいぶん器用になったものだな。清洲の政も満足にできぬ男が、九十九の口を借りなければ話もできぬとは」 信長が挑発すると、面の笑いが止まった。「父親の葬儀で抹香を投げたうつけが、今さら兄らしい顔をするな。お前は弟を邪魔だと思っていたはずだ。家臣から好かれ、母親から愛され、お前がどれほど望んでも手に入らなかったものを、あの弟は何もせずに持っている」「よく調べたな。それで俺が腹を立て、信行を見殺しにするとでも思ったか」「兄弟とは、そのようなものだ。父親から与えられる領地も、家臣も、母親の愛も限りがある。一人が多く受け取れば、もう一人の取り分は減る。勘十郎が死ねば、尾張の家督を争う者もいなくなる。お前にとって悪い話ではあるまい」 九十九の面が、信長の心を見透かしたように囁いた。 その言葉の一部が真実であるからこそ、帰蝶と犬千代は口を挟めなかった。信長と信行の間にあるものは、仲のよい兄弟が互いを思いやるような、単純で美しい情ではない。家督を巡る争いがあり、母の愛情を巡る傷があり、いつかどちらかが相手を討たなければならない可能性さえある。 信長は弟へ腹を立てたことがある。信行さえいなければと思った夜も、一度や二度ではなかった。「確かに、俺はあの弟が気に入らぬ」